図書館という名のシェルターについて
休日の午後、市の図書館や自習室をのぞくと、いつも人でごったがえしている。参考書を広げる受験生、新聞を読む高齢の男性、絵本を選ぶ親子。誰も彼も、無料で、ただそこにいる。この光景を何度も見るうちに、私は「無料で居られる場所」というものの価値について、ぼんやりと考えるようになった。
きっかけは、自分が住む清瀬市で起きた、ある出来事だった。
前の市政は、効率化とデジタル化を掲げ、市内にあった図書館の多くを閉じる方針を決めた。閉鎖にあたって行われた意見公募には、閉鎖という肝心の部分が明記されておらず、それを知らないまま意見公募の期間が終わっていたという指摘もある。存続を求める市民は、法律で定められた必要数を上回る署名を集めて住民投票の実施を求めたが、市議会はこれを否決し、閉鎖は押し切られる形で進んでいった。市民の間には反発が広がり、存続を求める声は選挙の争点にまで育っていった。そして先の市長選挙で、図書館を守ろうと訴えていた候補が、現職を破って当選した。長く市議会にいた人物で、選挙戦では「知る権利を守る」という言葉を繰り返し口にしていたという。
けれど、勝利のニュースから間もなく、新しい市長は閉鎖された図書館のひとつについて、再開を断念すると表明した。就任からわずか数日後のことだった。理由として挙げられたのは、すでに結ばれていた解体工事の契約と、それを止めた場合に生じる違約金だった。公約は、就任直後に一部撤回されることになった。
このニュースを追いながら、私は誰か個人を責める気にはなれなかった。むしろ見えてきたのは、行政という仕組みそのものが抱える、いくつかの構造的な難しさだった。
ひとつは、予算やプロジェクトが部署ごとに独立して動いていること。契約は契約として、選挙の結果とは無関係に、粛々と進んでいく。もうひとつは、意思決定をする人と、その結果に責任を持つ人がずれてしまうことだ。数年前に決まった計画を、任期を迎えたばかりの新しい市長が引き受けることになる。決めた人は、その先を見届けない。
もっとも、これは行政だけの問題でもないだろう。当の私たちにしても、10年先を見通すことは苦手だ。体が思うように動かなくなるのは10年前の話ではなく、いつも「今」起きることだし、子どもが生まれるのも「今」の出来事だ。人はどうしても目の前の生活を生きていて、10年後の自分や街の姿を具体的に想像するのは、思っているよりずっと難しい。
行政の側にも、似たような事情があるのかもしれない。地方公務員の多くは、数年おきに部署を異動しながらキャリアを積む、ジェネラリスト型の人事のなかにいる。複数の分野にまたがり、しかも何年もかけて物事を見続けるような専門性は、そもそも育ちにくい仕組みになっているのではないか、と思う。
ところが、清瀬市には実際に、10年単位の長期計画が存在していた。令和8年度から始まる第5次の長期総合計画で、10年ぶりの改訂だという。その将来像の最初に掲げられているのは、「子どもも大人も学びあい育ちあう」という言葉だった。学びの場を大切にするという理念が、まさに同じ年度に、学びの場である図書館の縮小と並んで動いていたことになる。計画づくりは新市長の就任前から数年がかりで進められていたので、誰かが手を抜いたわけではないのだろう。ただ、理念と現実が、同じ市役所の中で、別々の速度で進んでいたという事実だけが残る。
市のホームページを開くと、トップに「おうち図書館」を勧めるバナーが出てくる。電子書籍やデータベースを自宅で使えるという案内だ。悪いことではないのだが、私にはこれが、閉じてしまった図書館の代わりに置かれた、少し寂しい言い訳のようにも見える。同時に、こうしたデジタルサービスにはすでに事業者との契約や予算が数年単位で組まれていて、市長ひとりの判断では簡単に止められない現実も透けて見える。理念と契約、その両方に押されながら、市政は動いているのだと思う。長期計画の中では「DX推進」という言葉が繰り返し使われているが、日頃からAIをよく使う身からすると、そこにAIという言葉すら見当たらないことに、少し取り残されたような感覚も覚えた。
こうした一連の出来事は、しばしば「図書館戦争」という言葉で語られる。私はこの言葉の元になった物語をよく知らなかったので、今回少し調べてみた。もともとは、表現の自由と検閲への抵抗を描いた架空の物語だという。清瀬で起きていることは、それとはずいぶん違う。検閲する側とされる側の対立というより、予算と理念と時間軸がうまく噛み合わなかった結果に近い。わかりやすい比喩にラベルを貼ることで、かえって考えることをやめてしまうのは、もったいないと思う。
ここで少し視点を変えて、図書館の価値について、最近知った研究を紹介したい。人口あたりの蔵書数が多い地域ほど、高齢者の要介護リスクが低くなる傾向があるという分析だ。読書量そのものよりも、無料で通える場所があり、そこで人と顔を合わせられることが効いているのではないか、と言われているらしい。認知症の発症や死亡のリスクとの関連も指摘され始めているという。
実際、清瀬市自身もフレイル予防には力を入れている。体操教室や「通いの場」づくりなど、高齢者が家にこもらず人とつながり続けることを目的とした事業が、今も別の部署で進められている。図書館が担っていたはずの「無料で通える場所」としての機能と、市が別の予算で進めるフレイル予防の取り組みは、本来同じ方向を向いているはずなのに、同じ市役所のなかで、あまり交わらずに走っているように見える。
だとすれば、図書館を閉じることで浮く数千万円は、何年か先には、もっと大きな医療費や介護費として姿を変えて戻ってくるのかもしれない。ただ、それは選挙の1期・2期という時間軸には、なかなか収まりきらない話だ。
しかも厄介なのは、たとえ将来を見越して図書館の予算を惜しまなかったとしても、その効果は教育費の欄には現れず、民生費という別の欄に現れるということだ。自治体の予算は、教育費、民生費、土木費といった目的別の区分に沿って組まれる。これは清瀬市だけの習慣ではなく、全国の自治体が同じ様式で予算や決算をまとめるよう、国が会計の枠組みを定めているためでもある。ある年度にどこかの費目で予算が浮いても、それが自動的に別の費目に回るわけではない。図書館という「教育費」の話と、将来の介護や医療という「民生費」の話は、帳簿の上ではもともと別々の場所に置かれている。縦割りというのは部署の話だけでなく、予算そのものの区分の話でもあるのだと、あらためて思う。
ここまで書いてきたような数字や仕組みの話のほうが、実は党派性抜きに、幅広い世代に届くのではないか、とも思う。「図書館を守った」という物語だけで語ると、本好きの郷愁のように見えた瞬間、特に若い世代は興味を失ってしまうのではないか。要介護リスクや将来のコスト、予算の仕組みといった話のほうが、案外まっすぐ届く気がする。
結論めいたことを書くつもりはない。ただ、休日の図書館や自習室にあふれる人たちの姿を見るたびに、私はこの街の「無料で居られる場所」が、これからどうなっていくのかを、静かに見届けたいと思っている。